渋沢栄一は、ヨーロッパで学んだ知識技能や経験を買われ

近代日本をつくるため、明治維新政府の大蔵省で働きました。

しかし、政界だけに人材が集まるのは国のためにならない

国の健全な発達のためには経済の発展が必要だと考え

自ら銀行を組織し民間企業の創設・育成につとめました。

渋沢栄一は、日本が国として発展して豊かになることで

社会的な弱者は少なくなると考えました。

しかし、実際には貧富の格差は広がるばかりで

東京養育院に保護される人が増えてしまいました。

その様子を間近で見ていた渋沢栄一は、

資本主義では貧富の差を埋めることはできないことを痛感し

社会公共事業に、より力を入れるようになりました。

具体的には、東京市養育院、博愛社、(社)日本赤十字社

日本放送協会、東京会議所などです。

又、教育の必要性も強く感じ、多くの教育機関の立ち上げにも関わりました。

日本女子大学、早稲田大学、法政大学などです。

渋沢栄一は、約600にも上る教育機関 ・社会公共事業の支援や

民間外交なども積極的に進めていました。

その中でも、亡くなるまで50年以上関わり続けた「東京養育院」の運営は

渋沢栄一に大きな影響を与えたと言われています。

これらのことから、渋沢栄一は、あらゆる分野に

深く関わっていたことが分かります。

経済界引退後の功績

実業界を引退した渋沢栄一は、国際平和運動にも力を注ぎました。

国際的な相互理解に関する研究や講演活動などを

積極的に進めています。

また、第一次世界大戦後には平和を求める声が高まり

国際連合の前身である国際連盟が設立されました。

渋沢栄一はこの動きにあわせて、「日本国際連盟協会」を設立しました。

推薦されてその会長に就任し、終生その中心となって活動し

民間からの国際連盟支援運動を進めました。

大正十年、82歳の渋沢栄一は、戦争をしないためには

「軍艦を造るよりも、台場を築くよりも、飛行機よりも、潜水艇よりも

国際連盟が必要である」と述べています。

さらに軍国主義化する政府の外交方針を厳しく批判し

同士の人たちとともに軍国主義へ向かう政治を阻止し

平和友好の道を懸命に追求しました。

この渋沢栄一の発言は、現代の国際政治においても

重要な示唆を与えています。

渋沢栄一の国際平和運動は高く評価され

ノーベル平和賞に2回ノミネートされています。

渋沢栄一の生き方から学ぶこと

これほどまでに会社を多く作ってきた渋沢栄一ですが、

以外にも財閥は作っていません。

同時代に活躍した実業家たちとの大きな違いは

渋沢栄一が幼いころから学んだ論語の道徳観を

すべての行動のベースとしている点にあります。

渋沢栄一は、経済の利潤追求は認めながらも

その根幹には道徳が必要だと説いています。

経済活動を行う企業は国や人類全体の繁栄に責任を持つ必要があるとする

渋沢栄一の思想は、現代の日本にこそ持たなければならない

普遍的な考え方だと言えます。

明治26年6月11日の『時事新報』で、福沢諭吉は

「政府の役人になることだけが出世の道だと思い込んでいる人(青雲の夢)が多いが

そんな夢からはやく目覚めてほしい。

実業の道にすすんで、今はこの社会において最高の地位にある

渋沢栄一の生き方こそがもっとも模範とすべきものである」とたたえています。

まとめ

渋沢栄一は、間違いなく日本の近代化に大いに貢献した偉人の一人です。

渋沢栄一をもっと知ろうと思ったきっかけは

もうすぐ始まる大河ドラマ「青天を衝(つ)け」を

より面白く見たいということでした。

「麒麟が来る」を見ていて、歴史的な背景を詳しく知っていたら

もっと面白かっただろうなという反省からです。

渋沢栄一についてわかったことは

1.多くの漢書などを学んで道徳経済合一説のもと

私利私欲なく国益や公益のために活動した

株式会社は、個人主義に基づく利潤の追求ではなく

国の発展や国民の真の自立といった次元の高い理想を掲げた

2.海外での見聞を生かし

身分にとらわれない新しい自由な考え方を広めようと努めた

3.たえず学び続けて努力に努力を重ね

最後まで理想に向かって進もうとしていた

渋沢栄一の生き方は、私たちにひとつの道しるべを

示してくれているのではないでしょうか?