出典:深谷市パンフレット
渋沢栄一は、新一万円札の顔になるくらい重要な人物なのですが
その業績をよく知っている方は少ないのでは?
大河ドラマの主人公にもなるということなので
どんな人物なのか、どんなことをした人なのか
調べてみました。
すると、詳しく知れば知るほど
偉大な人物だということがわかりました。
渋沢栄一に興味のある方、その人物像と偉大な業績について
一緒に学んでみませんか?
渋沢栄一の年譜
渋沢栄一一生を、年譜で時系列で解説します。
どのような流れで渋沢栄一が日本資本主義の父と呼ばれるまでになったのか
経過を追ってみてください。
公益財団法人渋沢栄一記念財団の年譜を参照しました。
渋沢栄一年譜
1840 天保11年 2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。
1847 弘化4年 7歳 従兄尾高惇忠から漢籍を学ぶ。
1854 安政1年 14歳 家業の畑作、養蚕、藍問屋業に精励。
1858 安政5年 18歳 従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。 安政の大獄
1863 文久3年 23歳 高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが
計画を中止し京都に出奔。
1864 元治1年 24歳 一橋慶喜に仕える。
1867 慶応3年 27歳 徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。
1868 明治1年 28歳 明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。
1869 明治2年 29歳 静岡藩に「商法会所」設立。
1870 明治3年 30歳 官営富岡製糸場設置主任となる。
1871 明治4年 31歳 紙幣頭となる。
1873 明治6年 33歳 大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。
抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。
1875 明治8年 35歳 第一国立銀行頭取。
1876 明治9年 36歳 東京会議所会頭。 東京府養育院事務長(後に院長)。
1878 明治11年 38歳 東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。
1880 明治13年 40歳 博愛社創立・社員(後に日本赤十字社・常議員)。
1885 明治18年 45歳 日本郵船会社創立(後に取締役)。東京養育院院長。
1886 明治19年 46歳 東京電灯会社設立(後に委員)。
1888 明治21年 48歳 札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。
1889 明治22年 49歳 東京石川島造船所創立・委員(後に取締役会長)。
1890 明治23年 50歳 貴族院議員に任ぜられる。
1891 明治24年 51歳 東京交換所創立・委員長。
1892 明治25年 52歳 東京貯蓄銀行創立・取締役(後に取締役会長)。
1895 明治28年 55歳 北越鉄道会社創立・監査役(後に相談役)。
1896 明治29年 56歳 日本精糖会社創立・取締役。
1901 明治34年 61歳 日本女子大学校開校・会計監督。(後に校長)
1906 明治39年 66歳 東京電力会社創立・取締役。
1909 明治42年 69歳 多くの企業・団体の役員を辞任。
渡米実業団を組織し団長として渡米。
タフト大統領と会見。
1911 明治44年 71歳 勲一等に叙し瑞宝章を授与される。
1912 大正1年 72歳 ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。
1913 大正2年 73歳 日本結核予防協会創立・副会頭。(後に会頭)
日本実業協会創立・会長。
1916 大正5年 76歳 第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。
1917 大正6年 77歳 日米協会創立・名誉副会長。
1918 大正7年 78歳 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。
1920 大正9年 80歳 国際連盟協会創立・会長。
1921 大正10年 81歳 排日問題善後策を講ずるため渡米。
ハーディング大統領と会見。
1926 大正15年 86歳 日本太平洋問題調査会創立・評議員会長。
日本放送協会創立・顧問。
1927 昭和2年 87歳 日本国際児童親善会創立・会長。
1928 昭和3年 88歳 日本航空輸送会社創立・創立委員長。
日本女子高等商業学校発起人。
1929 昭和4年 89歳 中央盲人福祉協会創立・会長。
1931 昭和6年 91歳 11月11日永眠。
以上のように、年譜だけを見ても
多くの会社の設立にかかわっていることがわかります。
実業界だけでなく、国際親善、教育、社会福祉の分野でも
貢献しています。
次は、渋沢栄一のそれぞれの分野での業績について
詳しく説明します。
渋沢栄一の子供時代~青年時代まで
子供時代
渋沢栄一生地 中の家
渋沢栄一は、1840年(天保11年)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に
農民として生まれました。
当時は学校制度もなく、寺小屋に通っていたかどうかも分かっていません。
渋沢栄一は、6歳から父親から学問の手ほどきを受け
その1年後からは、10歳年上の従兄弟の尾高惇忠(おだかあつただ)の塾で
『国史略』『日本外史』などの書物を学び
学問することの面白さに目覚めました。
渋沢少年は好奇心が強く記憶力も抜群で、とても優秀でした。
四書・五経はじめ多くの漢書から日本史まで何十もの書物を通読し
十四、五歳頃まで読書・撃剣(剣術)・習字などの稽古を続けました。
その頃より家業に厳しい父の指導で麦作・養蚕や藍玉の生産販売に勤しみ
ソロバンの魂を身につけたことが、後年実業界で活躍する基礎になりました。
渋沢栄一デジタルミュージアムより引用
尾高惇忠の生家
青年時代
渋沢栄一は、若い頃は血気盛んで
23歳ごろには尊王攘夷運動に参加し
高崎城を焼き討ちする計画を立てていました。
このころ、新撰組の近藤勇・土方歳三や坂本龍馬・桂小五郎
西郷隆盛らともかかわっています。
しかし計画は結局中止となって京都へのぼり
24歳のときに一橋慶喜に仕えるようになりました。
その後、一橋慶喜は徳川幕府第15代将軍になり
渋沢栄一が27歳のとき、パリの万国博覧会を見学するチャンスが巡ってきます。
長期間欧州に滞在し、欧州諸国の様子を学んで
先進国の実情を知ることとなります。
渋沢栄一は翌年帰国しましたが、海外に行っている間に
日本では明治維新によって幕府が倒れ、日本は大きく変貌していました。
渋沢栄一が世に出るきっかけとなったのは
1867年にフランスの首都パリで開催された万国博覧会でした。
(中略)渋沢栄一は、パリへ渡る船の中でフランス語の勉強を始め
フランスについてからも語学教師について学び
1か月ほどでフランス語会話を習得してしまいました。
渋沢栄一が、資本主義システムをはじめ多くのことを
フランスで学ぶことができたのは
まずはじめに語学力を身につけるという
“先見の明”があったからに違いありません。
引用:渋沢栄一デジタルミュージアム
渋沢栄一の功績
実業家としての功績
渋沢栄一は、「日本資本主義の父」とも「近代日本経済の父」とも
言われています。
それは、渋沢栄一が初めて株式会社を設立し
各業種の中心となる多くの会社を興したことによります。
具体的には、株式会社、日本銀行、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)
東京海上火災保険、東京株式取引所、大阪株式取引所、日本航空輸送
王子製紙、東京石川島造船所、帝国ホテル、東京ガス、大阪ガス、東京電力など
今も日本で重要な位置を占める企業ばかりです。
最終的に、渋沢栄一は約500もの企業に関わっていたということです。
公共事業と教育に関する功績
渋沢栄一は、ヨーロッパで学んだ知識技能や経験を買われ
近代日本をつくるため、明治維新政府の大蔵省で働きました。
しかし、政界だけに人材が集まるのは国のためにならない
国の健全な発達のためには経済の発展が必要だと考え
自ら銀行を組織し民間企業の創設・育成につとめました。
渋沢栄一は、日本が国として発展して豊かになることで
社会的な弱者は少なくなると考えました。
しかし、実際には貧富の格差は広がるばかりで
東京養育院に保護される人が増えてしまいました。
その様子を間近で見ていた渋沢栄一は、
資本主義では貧富の差を埋めることはできないことを痛感し
社会公共事業に、より力を入れるようになりました。
具体的には、東京市養育院、博愛社、(社)日本赤十字社
日本放送協会、東京会議所などです。
又、教育の必要性も強く感じ、多くの教育機関の立ち上げにも関わりました。
日本女子大学、早稲田大学、法政大学などです。
渋沢栄一は、約600にも上る教育機関 ・社会公共事業の支援や
民間外交なども積極的に進めていました。
その中でも、亡くなるまで50年以上関わり続けた「東京養育院」の運営は
渋沢栄一に大きな影響を与えたと言われています。
これらのことから、渋沢栄一は、あらゆる分野に
深く関わっていたことが分かります。
経済界引退後の功績
実業界を引退した渋沢栄一は、国際平和運動にも力を注ぎました。
国際的な相互理解に関する研究や講演活動などを
積極的に進めています。
また、第一次世界大戦後には平和を求める声が高まり
国際連合の前身である国際連盟が設立されました。
渋沢栄一はこの動きにあわせて、「日本国際連盟協会」を設立しました。
推薦されてその会長に就任し、終生その中心となって活動し
民間からの国際連盟支援運動を進めました。
大正十年、82歳の渋沢栄一は、戦争をしないためには
「軍艦を造るよりも、台場を築くよりも、飛行機よりも、潜水艇よりも
国際連盟が必要である」と述べています。
さらに軍国主義化する政府の外交方針を厳しく批判し
同士の人たちとともに軍国主義へ向かう政治を阻止し
平和友好の道を懸命に追求しました。
この渋沢栄一の発言は、現代の国際政治においても
重要な示唆を与えています。
渋沢栄一の国際平和運動は高く評価され
ノーベル平和賞に2回ノミネートされています。
渋沢栄一の生き方から学ぶこと
これほどまでに会社を多く作ってきた渋沢栄一ですが、
以外にも財閥は作っていません。
同時代に活躍した実業家たちとの大きな違いは
渋沢栄一が幼いころから学んだ論語の道徳観を
すべての行動のベースとしている点にあります。
渋沢栄一は、経済の利潤追求は認めながらも
その根幹には道徳が必要だと説いています。
経済活動を行う企業は国や人類全体の繁栄に責任を持つ必要があるとする
渋沢栄一の思想は、現代の日本にこそ持たなければならない
普遍的な考え方だと言えます。
明治26年6月11日の『時事新報』で、福沢諭吉は
「政府の役人になることだけが出世の道だと思い込んでいる人(青雲の夢)が多いが
そんな夢からはやく目覚めてほしい。
実業の道にすすんで、今はこの社会において最高の地位にある
渋沢栄一の生き方こそがもっとも模範とすべきものである」とたたえています。
まとめ
渋沢栄一は、間違いなく日本の近代化に大いに貢献した偉人の一人です。
渋沢栄一をもっと知ろうと思ったきっかけは
もうすぐ始まる大河ドラマ「青天を衝(つ)け」を
より面白く見たいということでした。
「麒麟が来る」を見ていて、歴史的な背景を詳しく知っていたら
もっと面白かっただろうなという反省からです。
渋沢栄一についてわかったことは
1.多くの漢書などを学んで道徳経済合一説のもと
私利私欲なく国益や公益のために活動した
株式会社は、個人主義に基づく利潤の追求ではなく
国の発展や国民の真の自立といった次元の高い理想を掲げた
2.海外での見聞を生かし
身分にとらわれない新しい自由な考え方を広めようと努めた
3.たえず学び続けて努力に努力を重ね
最後まで理想に向かって進もうとしていた
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